はじめに
「王・長嶋がヒマワリなら俺はひっそりと咲く月見草」
これは元野球選手、監督の野村克也の現役時代の言葉です。
現役時代はどちらかというと無口で、
数々の「名言」も監督、解説者に
なってからが多いと言われています。
そんな現役時代の言葉だからなおさら貴重です。
どのようにして生まれ、世に出たのかを紹介します。
話題の一つとしてぜひ活用してください。

野村と王・長嶋
野村克也は、プロ野球選手になり、
活躍して収入を得ることを目標にしていました。
1954年テスト生としてではありますが、
念願が叶い
パリーグの南海ホークス(現ソフトバンク)に
入団することができました。
入団3年目から頭角を表し毎年のように
打撃のタイトルを取っていました。
特に1965年には3冠王に輝きました。
しかし、
あまり注目されませんでした。
野村克也だけでなく当時のパリーグは
今では信じられませんが、人気がなく、
球場によっては「閑古鳥」がなくほどの
観客が少ない時代でした。
中には野球観戦ではなく他のこと行っている
シーンもスポーツニュースなどで映し出されて
野球ではなくこちらの方で
話題になったこともありました。
その一方で、
野村克也がライバル視する
「セリーグの巨人・王、長嶋」は
「巨人、大鵬※、卵焼き」
といわれる程人気があり、
メディアに取り上げられることも多く、
テレビの野球中継も「巨人一辺倒」の時代でした。
※大鵬
大相撲の力士で第48代横綱。
圧倒的な強さで
優勝32回(6連覇:2回)・45連勝など
を記録しました。
広告
当時の巨人は圧倒的に強く、華やかで
特に王(選抜優勝投手)
長嶋(東京六大学のホームラン王)は
別格で
好きな野球選手といえば「王・長嶋」
とほとんどが答える時代でした。
そんな中、野村克也は
「打って、打って、打ちまくっても」
「チームがパリーグ3連覇しても」
話題として取り上げられることが少なかったです。
広告

俺は月見草

王・長嶋がヒマワリなら

俺はひっそりと咲く月見草
この言葉は野村克也が当時おかれていた立場に
正にピッタリです。
この言葉のもとは、太宰治の「地獄百景」※に
書かれている
「富士には、月見草がよく似合う」から
取り入れた言葉です。
※地獄百景
「地獄」について書かれた本です。
日本の地獄でも特に地獄絵や十王図の説明や、
富山の立山にある地獄めぐりについて等、
色々な側面から地獄について語っています。
「富士」を「ヒマワリ」に変えたのは
「野村沙知代婦人」のアドバイスがあったからです。
野村克也は「コミュニケーション」の
重要さを常々語っていたので、
「王・長嶋がヒマワリなら俺はひっそりと咲く月見草」
が世に出るまでには言葉を選び色々考えた末でのことで、
かなりの時間がかかりました。
この言葉は「巨人、王・長嶋」に対する反骨心や、
耐えて時を待つという思いが伝わってきます。
このような野村克也もヤクルトの監督に就任すると
「ID野球」「野村再生工場」で
ヤクルトの黄金時代を築き、
新興球団楽天では、日本一の礎を築き、
脚光を浴びるようになりました。
広告

2日で【動画編集スキル&案件獲得】は本当?
CAMPの真相に迫る
おわりに
野村克也はプロ入り1年目のシーズンオフに
クビが言い渡されました。
しかし、必死の行動に出て何とかチームに
残ることができました。
ここでどん底を味わったことと、
自分の不器用を補うために
頭を使って練習したことで、
選手、監督として永きにわたり、
活躍することができました。
そんな野村克也が脚光を浴び「ヒマワリ」になることを
予言した人がいます。
それは評論家の草薙大蔵※です。
※草薙大蔵
野村克也が師と仰ぎ、
人生で大きく影響を受けた人物。
沙知代夫人と知人だった関係から紹介された。
南海監督解任時に激励のために
「生涯一書生」という言葉を送られる。
その後「生涯一捕手」という言葉が誕生。
ヤクルトの監督に要請があった時の話しで、
「陰が多い人生でも、必ず陽が当たる時がきます」
と言われたそうです。
この言葉通りに脚光を浴び、
「野村克也がヒマワリになりました」
陽が当たるようになりました。
私たちにも陽を与えてくれました。

最後まで読んで頂きありがとうございます。


コメント